正しさを祈りながら

5月某日。全国から名だたる猛者たちが、大阪に集った。「修行」と称されるセミナー、
「高口光子の生活支援の場の看護・介護リーダー塾」そのオブザーバーたちだ。

今回は彼らにスポットがあたる。受講生の悩みをともに分かち合う彼らこそ、どのように悩み考えここまで歩んできたのか。
しかしクローズドな場での話であり、具体的内容は記載出来ないことが悔やまれる。

まずは高口氏の組織論から始まった。
組織とは生き物だ。ならば当然腐っていくわけだ。その過程を今一度確認する。施設を立ち上げから考えると、設立期、形成期(前期・後期)、成熟期、そして腐りきった底つき期に分けられる。

設立期は揃える段階。質は問わず、まずは必要なものがひとまずあることが大切だ。ここで必要なリーダーは「夢を語る」リーダーだ。実現可能かどうかは関係なく、この夢を語る人がいなければ、不必要な派閥が発生してしまう素地となる。

形成期は整える段階。夢を語り合った集団が、様々な困難を体験し混乱する。そんな時こそ「全てを公にする」リーダーが必要だ。未成熟な段階で、その人のネームバリューで保つ場面が多く生まれる。ここで職員たちが発言し、自分たちで解決できるという体験を少しでも共有しておかなければ、くだらない揉め事に四苦八苦し、組織は早くも疲弊してしまう。だからこそ会議を設け、全てを俎上し、タブーを作らない。組織の踏ん張りどころである。

成熟期は問える段階。課題やトラブルのない施設など存在しない。それらの構造を読み解き、本質を捉え、解決までの道筋を立てられる「問える」リーダーが必要だ。これは何が問題なのかを明らかにできる人がリーダーであるなら、十分成熟期と言えるだろう。

そしてそのリーダーは組織に「負荷」をかける。ある時はターミナルケアで、またある時は深き認知症の方で、そして大幅な業務改善で。組織に何のための自分たちなのかということを問うわけだ。この「負荷」、つまり自分たちが何をする集団なのかを共有出来なければ、お年寄りは数や量となり、職員都合な効率化が正当化され、地獄のような施設が誕生してしまうだろう。リーダーとは、その規模に関わらず、この「負荷」を自らの責任において組織にかけ、成長を見届ける人なのだ。


そしていよいよオブザーバーたちは、自分たちの事業所の現在地について語り始める。

その具体的内容は前述の通り記載出来ないが、当人たちが公言している話やSNS等の発信を参考に、その思いをできる限り鮮明にお伝えしたい。


石井英寿は微笑んでいた。
名実ともに介護界のトップランナーを走り続ける「石井さんち」は、52間の縁側を設立させ、今なお成長し続けていた。
そんな彼もやはり悩み迷い考える日々が訪れる。メディアへの登場により世間からも声援と批判が混ざりあって届けられる。信念の旗を掲げてやってきたはずが、いつの間にかその旗の重みに自らが潰されそうになる。そんな自分をバカだからと責めていた。
それでもなお彼の表情は明るかった。多くの期待と羨望、嫉妬と憐憫の目を向けられ、それでも真摯に応えようとするその姿は、自らが掲げる旗よりも気高く見えた。


中迎聡子は見つめていた。
天衣無縫を体現しているといっても過言ではない彼女が、たった一人のお年寄りから始めたのが「いろ葉」だ。今やその名は全国に轟くまでになる。しかし、その歩みは堅実で、良きものを柔軟に取り入れる貪欲さも兼ね備えていた。
思いだけで進めていた状況に、負担がのしかかり齟齬が生まれ始める。環境への投資はスタッフにもお年寄りにも重要だと気づく。
面倒くさいと思っていたことを整理し、誰がいなくなってもいろ葉が継続できるようにする。かつ、自分たちだけでなく全国の仲間たちにも思いと方法を伝えようとするに至る。今の介護界を嘆き、それでも涙を拭った彼女のその目の先には、良き介護が全国に拡がった世界が見えているのだろうか。


植賀寿夫は見据えていた。
今回最も繊細かつ丁寧に言葉を紡いだのは「そうら」の植氏だろう。全国でも有名な「えのまち」を引き継ぐこととなった彼は、何よりもその空間を大切にしていた。十七年地域のお年寄りを支え、そこで暮らす人々の安心の柱となっていた場に、突如異物として現れたとも言える。だからこそ丁寧に信頼を作り上げていった。
それはまさに認知症ケアのプロである彼の真骨頂ともいえる。「こだわりにこだわる」ということの大切さを、何より一番理解しているからだ。
それでも組織は変わりゆく。動的平衡的とはいえ、制度も人も移ろいゆく。当然混乱は生じるだろう。
彼はそこまで見据えてみせた。レジェンドの後を継ぐという最難関な課題を自らの負荷として、「そうら」をより深き世界へいざなっていく。


佐伯美智子は楽しんでいた。
自分らしく生きる。その圧倒的純粋無垢な理念を具現化するため、「MUKU」を立ち上げた。楽しむことを何よりとし、そこにいる全ての人と楽しい生活を築いていく。だがやがて、楽しさだけでは続けることは難しいという現実にぶち当たる。
そんな時に2軒目を立ち上げ、組織に大幅な負荷をかける。それも全て楽しむために。
自由と放置は違う。人は何をしてもいいと言われると、その何をしても、に縛られ、身動きが取れなくなってしまう。その本質を捉え、組織基盤を整理し、本当の自由を掴み取るため、「MUKU」はさらなる成長をつづける。もちろん、楽しみながら。


金岡重則は歩んでいた。
利用者のために自然と働きかけるスタッフが、生産性を前に罵倒される現実を目の当たりに、この人がきちんと働くことの出来る事業所を、と一念発起し「生き活き家」を立ち上げた。順風満帆にみえたその運営は、組織として未成熟のまま立ち上げた2軒目をきっかけに少しずつ綻んでいく。
信頼していたスタッフからも嘆きの声があがり、利用を断るという苦渋の決断をした。歩みを止めたかにみえた「生き活き家」が、本当の意味で歩き始める時がきた。信頼出来る相棒とともに、必要な言葉を手探りしていく。避けてきた高口氏との邂逅から、我らが兄貴は涙を超えていく。


坂野悠己は怒っていた。
モチベーションは怒り。劣悪な施設介護を目の当たりにしたその日から、現代の革命家は誕生した。こんな生活があっていいはずがない。もっともシンプルなオリジンは、今なお彼の原動力となっている。
その熱を持ってして「駒場苑」を改革していったのはあまりに有名だ。
だが、携わる事業所の課題を解決する度に、怒りはそれに反比例して収まっていく。自らの怒りを湧き立たせるものはないのか。飢えた眼光が次に捉えたものは、何を隠そう国だった。そもそも劣悪な施設介護が蔓延る真の原因は、制度そのものにあるのではないか。だったらその制度を変えていこう。手に握られたドライバーを要望書に変え、日夜現場の声を届け続けていく。


阪井由佳子は託していた。
介護保険制度が始まる前、思いを純度100%で体現できていた青春の時代。そう評していた「にぎやか」は、岐路に立たされていた。一度閉じた事業所を再び始め、次なる者へ託すために。
毎日悩み考え迷い、時に涙する日々に、これは誰にも任せられないと感じた。だが、だからこそ「にぎやか」は介護界に残さなければと、後継者を探し、様々なことを讓渡していく。その過程は彼女にとってとても寂しいものになるかもしれない。それでもなお、自分という存在がなくても、「にぎやか」が誰かの居場所になれるようにと、ひとつずつ丁寧に思いを託していく。


思いを形にするために、迷い傷つきながらここまで辿り着いただろう。その歩み方は様々だが、今彼らに共通するものがあるとすれば、それは「継承」だろう。

介護はアートだ、と言った人がいる。とするならさしずめ僕らはアーティストだろうか。一回性が強く再現性が担保されにくい介護は、確かにアーティスティックな側面がある。そこに人は美しさすら喚起される。

ビートルズなどのアーティストが、その活動を閉じるように、同じようにそうして閉じる事業所があってもそれは仕方ないことだ。だが、僕らはアーティスト集団ではなく、社会保障を元に、お金をいただく介護のプロ集団だ。音楽性の違いやメンバーの仲違いで容易く身を引いてはならないのだ。

思いひとつで立ち上げた事業所も、古くから伝わる大規模事業所も、そこで暮らす人々の安心の礎になっている。そしてそれはこれからも末永く続くという信頼と約束から基礎づけられる。

介護は未だに体系化されず、学問としても弱い立ち位置にいる。良い介護とはなにか、それらは伝承的に育まれていく。今なお綱渡り的な文化が醸成されている。

だからこそ「継承」に対して、彼らはここまで思い悩む。数多くの失敗を繰り返し、それでもそこで生まれた安心という灯火を絶やさぬように。
そこに必要なのが、導く人、リーダーなのだ。

組織を継続していくため、皆を包み込むように微笑み、行く先を見つめ、起こりうることを見据え、ともに過程を楽しみ、課題とともに歩み、時に感情を露に怒り、そしてまた誰かへ託していく。

そんなリーダーが必要なのだ。

みんな失敗してきた。あの時ああすれば。これは間違いだった。自分のせいだ。傷つけてしまった。彼らは口を揃えてそう語った。間違った道を、正しさを祈りながら歩き続けている。だからこそ彼らはリーダーたりうるのだ。

大切なことは言葉にならない。だからこそ言葉にしなければならない。この矛盾を孕んだ実体をその手に掴むため、高口光子は今日もリーダーを育てていく。
みなさんありがとうございました。

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